まず無い稲妻、た抜きの暗号

黒川 彰宣

2013/12/21[土] - 2014/01/26[日]
Reception; 2013/12/21[土] 18:00-20:00
MORI YU GALLERY TOKYO

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冬季休廊:2013/12/29-2014/1/7

描かれた空白、型としての空白
ー地と月の境界でー

たぬきから、何が書いてあるのか分からない手紙が届く。文章を「た」抜きにすると文章が読めるようになる。黒川は「た抜きの暗号」をもじってたぬきを黒いペンで描く。

白い紙に黒い線が走り、現れたたぬき。そのタヌキの輪郭の内と外は、白く抜かれたように描き残されている、それを「空白」(=blanc)とよぼう、そしてその空白を生む黒い線を「境界線」(boundary line)とよぼう。そのドローイングを黒川は白黒反転させる。当然黒い線が白くなり、白い面が黒い面となる。空白という本来の意味を纏っていたはずの白い面が黒い面となったとき、黒川は一転して白い修正ペンで黒を消しはじめる。黒から白へ。
どんどん黒が減り、白くなるにつれ、描かれていたたぬきの存在も白い面に埋没し始める。黒川は、黒い面をその起源である空白へと、白いペンを走らせる。あたかも面に刻まれているはずの記憶を修正するかのように。

大まかには以上のようにして黒川はこの作品をつくっていく。
そもそもたぬきを描くための「境界線」とは、黒川の語る「型」なのかもしれない。内容をふちどるもの。であればその型たる黒い線が白 くなり、本体の境界線の意味を忘れ「型」としての記憶をなくしてしまったのならば、黒川はさらにその記憶を支えようと考える。「型」たる境界線としての白い線の記憶を支えるかのように、記憶が漏れでないように土手をつくるように白いペンで描く、「型」の「型」を。これはあたかも「塑像」のようにみえてくる。これはドローイングという平面作品でありながらも塑像という「立体作品」であるのだ。行為としての「型」の「型」。その行為は視覚的には白い紙を白いペンで埋め尽くした作品と映ってしまうのだが、そもそも白い紙は「空白」ではなかった。黒川によって描かれた黒い線によってテリトリーが生まれつくり出されたものが「空白」である。それを気付かせてくれるこの黒川の作品は非常に興味深く、空白を描いているといえよう。であるから内容の「型」というよりも、「型」の「型」である。黒川は「そこに内容はないよう」とでもいうのかもしれない。

これは空白という意味を纏ったオールオーヴァーな作品としてモダニズム的な意味においてのミニマリズム批判への示唆とも読める重要な作品であると考えられる。ミニマリズムがもし「空白」を求めていたのなら、「空白」の本質的な意味をもとめるためにどんどん削られていった様々な色や絵の具といったもの、手の跡。
しかし黒川は「空白」をもとめるため、どんどん塗り重ね、塑造していくのだ。意味の裏返しの作品である。そこでまさに裏返された写真作品もある。白い物体。そこに写されているのは実際に裏返したちくわである。

黒川はここでまた、「空白」に意味があるのか、それとも境界線に意味があるのかという問題を問うてもいる。「た抜きの暗号」とは、「型」の「型」。「た」を抜くと普通に解読な文章になるのだが、この「た」という境界は、抜いたほうがいいのか否か。
白いペ ンで修正し塑像した後、それでも実はやはりどこかで塗り残しが残る。いや黒川はあえて塗り残すのか。塗り残しが出るのは自覚の限界/盲点であるから、意識的/身体的に「どうしようもないこと」。自覚の限界としての「た」。自覚できない「た」。「たぬきから来た暗号の遊び」の本質は、理解できる(が限定された)文章でもなく、理解できない文章でもなく、解読コードである「た」にある。これこそが型、型の型であり、「た抜きの暗号」の本質であった。

この作品はまるで回文のように左から右へ、右から左へと、寄せては返す波の如く、カタチを変えて『まず無い稲妻』(まずないいなずま)という立体に繋がり、そしてまた『た抜きの暗号』へと揺り戻される。形式としての型(型の型)は、もちろん内容と区分されつつも、寄せては綯い交ぜとなり、返してはまた区分されるのだ。それはやはり変化する波の如く、本当は同質でありながらもカタチを変える。ただ揺り戻されるたびに黒川は違う地平へと鑑賞者を誘っているのかもしれない。波の質の変化へと。前へ進むようにみえて実際は後退しているマイケル•ジャクソンの「ムーンウォーク」が、地面から浮遊してみえるのに擬えてこの一連の作品を語る黒川の態度がようやくここで明らかとなってくる。振り返ってみよう。白い紙の上に出現した描かれた空白は、元々何も描かれていない白い紙と同じ「地ground」にありながらも、いつのまにか空白というものが成立する異なる「地ground」へと変化していた。
地にあるのに浮かんでいるような「ムーンウォーク」は、地球と月の間を行き交う。しかし月は漂う、波とともに。鑑賞者は月を見上げながらいつのまにか自らの服を「知らぬ波に皆濡らし」、鑑賞した後に違う波が来ていたのだとようやく気付くのだ。
私も実はその一人であった。