MORI YU GALLERY レクチャー&トーク

2014/06/20[金] - 0000/00/00[火]
Reception; 2014/06/20[金]
MORI YU GALLERY TOKYO

MORI YU GALLERY レクチャー&トーク

日時:2014年6月20日(金)
   18:30 開場
   19:00 スタート (約2時間を予定)

内容:
●レクチャー「古典から現代にいたるノイズ=映像」(作品上映あり):河合政之

●森裕一(MORI YU GALLERY)× 河合政之その他ゲストによるトーク


展示//黒田アキ、パラモデル等

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ノイズという思想――秩序と意義に決別するために

「傑作は雑音を発し、呼びかけることを止めない。この母胎にはすべてがある。母胎には何も存在しない、それはすべすべしているということができる。それは渾沌だということができる、薄片状に水が落ちる滝、あるいは嵐の雲の動き、雑踏であるということができる。現象と名づけられるもの、つまり秘密から引き出された変幻者の変身だけが知られるのであり、知りうるのである。それらはノワズゥな海から浮上する。目に見え美しいのは乱雑な絵なのだ」(ミシェル・セール『生成――概念をこえる試み』及川馥訳より)

ここでとりあげるノイズは、「シグナル」に対立するものとして、コミュニケーションから排除するべきとされる「ノイズ」ではない。むしろノイズこそは、生成の可能性である。ノイズは乱流となり、乱流の中に波動があらわれ、波動は反復し、そうした反復が結果として冗長な秩序と意義を生み出すのである。

だがこのようなノイズそのものへと目を向けることは、容易いことではない。そこは一見、渾沌と危険に満ちているからだ。そしてそのような流れの川上へとさかのぼるよりは、すでにできあがった秩序と意義に安住し、その母胎であるノイズを忘却した方がはるかに楽なのだ。そしてカッコに入れた「ノイズ」を馴致し、それを取り込んで意義と秩序の充実化をはかる方が、現代では好まれるのである。

だが私たちがここでおこなおうとしているのは、このような秩序と意義に与することなく、カッコに入れられないノイズそのものを見つめてきた芸術のあり方を発見することである。もちろんノイズは、そのものとしては語ることができない。だがそうだからこそ、それは可能性のもっとも初源的な、切り立った場における思想であるともいえるだろう。私たちは、秩序と意義の「わかりやすさ」にあくまで逃げ込むことなく、この可能性の奔流の中へと乗り出していくことを選ぶのである。

                           河合政之
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ノイズに関する参考文章として以下の文章を掲げておきます


 今回はプラレールを使ったインスタレーションで知られるパラモデルの裏ヴァージョンとしての展覧会である。パラモデルの様々なコンセプトが多く散りばめられ中野裕介の世界を中心に展覧される。中野は絵画とテクストの狭間を行き来してきた。絵画とテクストを同時に平面におさめる際、そこに広がる創造や矛盾、葛藤。そうしたことを「模型遊び」として作品化する。中野が作った作品からもう1人のメンバー林泰彦の作品性も透かしてみえるてくる。これは彼等にしかできない曲芸のようだ。しかし2系統間の葛藤の果てに刻まれるのは良くも悪くも「傷」であろう。「傷」とはなにか。そこにもしかすると絵画とテクスト「間」にあるものをつかむ糸口、パラモデル2人の「間」を理解するヒントがあるかもしれない。

 「私の傷は私以前に存在していた、私は、その傷を受肉するために生まれてきたのだ」というジョー・ブスケの言葉を中野は好む。「傷」をおったテナシイヌは、パラモデル結成当初から登場してくるキャラクターである。傷ついたテナシイヌ。その無い前足の部分からうまれくる万物を描いた平面やドローイング、ビデオなどは、プラレールインスタレーションの華やかで綺麗、かつ外部へと繋がっていく様相とは反対に、パラモデルの裏ヴァージョンをなすメタなもの、核となっている。藤子不二雄やドゥルーズ=ガタリといった二人の関係性を中野が語るように、この関係性は当初語った2人の間、二項間の問題と重なる。2人がかかわるが故にうまれる創造から矛盾、葛藤そして「傷」へという方向性が一方向としてあり、逆方向としては「傷」を負ったテナシイヌが存在し「傷」が存在する故に創造できるというという双方向性がパラモデルにはみてとれよう。これはパラモデルのparaドックスである。つまりテナシイヌはまたパラモデルそのものの「傷」とも解せるのだ。であるならば、パラモデル自体「傷」を受肉するために結成されたのだ、といっても過言ではないだろう。パラモデルはいつも既に傷ついている、というとどこかのキャッチコピーのようだが、外部をも巻き込んでいく彼等の様々なコンセプトの裏には、やはりこうした「傷」が隠されている。パラモデルの創造と葛藤はレールのように続き、交差してはまた離れていく。そう、実際プラレールのインスタレーションをよくみてみると「傷」のようなイメージが立ち上がってくることにいまさらながら気付かされるのだ。
 思い返せば、パラモデルの最初のインスタレーションのため、企業にかけあって私がプラレールを見つけてきた瞬間から、否それ以前から、私も傷いていたのかもしれない…パラモデルと出会わざるをえないものとして。「傷」は痕跡である。何ものかと何ものかの接触によりうみだされてしまう「傷」は、記憶とも外部の記録とも違い、また「傷」を背負ったもの自らしか知り得ない感覚として現在という地平に存在している。「傷」でしかパラモデル二人の共有可能なものを表せない、「傷」しか二人を繋ぐパッサージュはないとも私には解せる。テナシイヌはパラモデル以前に既に描かれていた…そしてこのことはブスケにより既にテクストとして描かれており、中野はブスケを知らずしてテナシイヌを描いていた。

ここで絵画とテクストの関係について考えるために、一人の別の画家、黒田アキの作品を取り上げてみたい。黒田アキの作品《Le Monde1991-1993》(『世界』、1991-93年)には、彼の友人である小説家パスカル・キニャールの文章が書き込まれている。キニャールが黒田のためにA4ほどの紙20枚ほどにしたためた文章を黒田がキャンヴァスに書いていく。いや描いていく。黒田の描いた線はエクリチュールでもある。いったいタブローと化したエクリチュールとはなにか。あるいは黒田の《conti/nuit/e’》というタイトルの作品(『連続のなかの/夜/』)。時間という連続の中に夜がある。夜はいったいいつから始まりいつ終わるのか。微分されるように、その狭間は判然としないものの、確かに夜はある。線としてのテクストは縺れて夜となり、夜はほどけて線となる。そこにはノイズが、ノイズによるアンデュレーション=波動がある(黒田がディディエ=オッタンジェを副主幹にして20巻を編集した雑誌の名前は『NOISE』であった。「NOISE」は黒田の友人ミッシェル・セールの言葉にもみられる。)。
 黒田のアプローチとは異なりながら、中野の書く、描くテキストもまた、彼の絵画やドローイングの海の中で結んでは消え、消えては結ぶかのようにみえてくる。夜のように、朝から昼に解けてはまた夕方の後に生まれてくる。そしてそれはまたパラモデルという時間の狭間に林と中野が縺れてはほどけるようにして存在するかのようにみえてくる。パラモデルが互いを遥か彼方に見据える時、その間に広がるパッサージュとしての海が在る。然るにその海は決してスーパーにフラットではない、僅かにノイズが、アンデュレーションがある。そこにパラモデルたる所以がある。MORI YU GALLERYのアーティストたる所以もある。海面に浮かぶプラレールと深い「傷」を想いださせるであろう沁みる海水。プラレールのインスタレーションはたんにフォーマルなるものではなく、2人がインスタレーションをするために常につくられるドローイング(後にコンピューターによるドローイングとなる)は常に2人の間で揺れており、インスタレーションは縺れてはほどけていくのだ。それは本当の「傷」を負ったものにしかわからないのかもしれないが、中野の水道管を描いた絵画や、林のパイプのインスタレーションはそれをわかりやすく紐解いてみせてくれる。そうしたことを再認識させてくれるのが今回の展覧でもある。パラモデルの間に存在する海が荒れ、パラモデルの間にいる中野と林の二人が縺れた時、フィギュール(黒田に関して私が語るところの特殊なフィギュ-ルと)、あるカタチ、痕跡、「傷」があらわれる。まさに2人の接触による「傷」がそうなのだ。傷つけ、傷つき合いながら生み出される作品は、追随を許さないほどの強さと痛みを持ち、「俊徳丸」の背負った「傷」をともないノイズとなってアンデュレーションを生み出す。2人の間に浮かぶ小舟に乗っていると常に2人の間にある海の波を感じられるのだ。ただ、いわゆる2項、2人という間から常にノイズがうまれるわけでは決してないとあえて最後にのべておこう。」

MORI YU GALLERY 森裕一