点々と、延々~

黒川 彰宣

2012/07/15[日] - 2012/08/12[日]
Reception; 2012/07/15[日] 18:00
MORI YU GALLERY TOKYO

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「延々と続くあみだくじの中を生きているように感じる」と黒川は語る。展覧会場で最初に目に入ってくる作品「占っている」は、あみだくじを表象したものであるのだが、これに黒川は「延々」と続くものの象徴として脱皮する蛇のイメージを使う。

黒川は、世界を知るためのイメージとしての「素材」を触覚的に把握しようと試み作品をつくっているように思える。視覚的ではなく、触覚的に、蛇のように這い、ねじれ、蛇行しながら世界とそれ以外のものの境界を知覚しようとし続ける動きを、彼はあみだくじ構造を立体化することによって表現している。

その動きは、「判断のしどころ」という作品にもつながっていく。一本の紐からつくられた立体作品
で、心臓(生死の境界)とクラインの壺(空間の境界)をミックスしたようなかたちとして表され、それはまたシマヘビが集合しているかのようにも見える。それは身体と世界の境界が綯い交ぜになるようなイメージをともなうのだ。黒川は、ある種の境界をここで策定しようと試みているようだ。しかし、そうした境界を策定しようとした瞬間、そのイメージは一本の紐だけを残して溶けてしまう。掴めそうで掴めない、危うい緊張感で「判断のしどころ」は成立している。

そうしたある種の緊張感をともないつつ、黒川のドローイングも描かれている。「お前だけの」「無題」に見られるように、稲妻(のような何か)に打たれるという、象徴的であり偶然性の強い出来事に翻弄されながらも、我々と世界はそうでしか接点を見出せないのかもしれない(多用している滲みの表現にも、その偶然性と、触覚による表現への関心が伺える)。

先の「判断のしどころ」のモチーフである心臓についても、生命を左右する重要な役割を担っているのにも関わらず、人の意志で動く臓器ではない。今回の展覧タイトル、「点々と、延々~」を黒川は"here,there and everywhere"と訳しているが、日常的に我々はその象徴的になり得る偶然を我々は受け入れているように思えてくる。
黒川は、世界との接点を持つ瞬間を悲劇性を孕んだように捉えようとはしておらず、むしろ、「なにかを     飲み込んだら、紐がこう見えてきたら、稲妻に打たれたらどうなるのだろう」と、楽しんでいるように思える。紐を巻く支持体について訪ねられた際に、黒川は「内容はないよう」と答えていた。「むしろ、そういうものが入っていて欲しい」とも。その自虐の振る舞いを、同時にユーモアを交えて俯瞰する視点が彼の特質であるように思える。

世界、そのカタチをとらえ、世界とそれ以外のものの境界を認識することは難しい。世界を掴んだと感じるや否や、世界はまたふっと一本の紐だけを残し消え去る可能性は常にあるのだ。しかし、それでも紐だけは記憶しているにちがいない、世界のカタチを、そしてその境界を。そう紐はまた蛇の表象ともとれるのだ。
   世界の一部を切り取る立体的な触覚性の提示を黒川は既に20代にして始めていたが、ようやくそれがかたちづくられつつあるようだ。世界との距離、境界の問題を考えてきた作家はいるが、黒川は色々な素材を駆使し、皮肉とユーモアを携えながら、それを捉えようとしている数少ない作家であろう。