MORI YU GALLERY

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KYOTO展示中


[飯村隆彦 河合政之「Out of Frame」]

2019/07/13[土] - 2019/09/01[日]
Reception; 2019.7.13(sat) 17:00-19:00
MORI YU GALLERY KYOTO

下記の期間は休廊いたします。
■月・火、7月27日(土)、8月11日(日)-20日(火)まで

<アーティスト・トーク>
7月13日(土) 15:30-17:00
飯村隆彦・河合政之 トーク
(予約不要 / 無料)
プレスリリース


Out of Frame
一貫して哲学的な映像作品を発表し続け、世界的に評価される二人のアーティスト、飯村隆彦と河合政之による二人展。飯村と河合が 20年以上の対話を通して紡いできた美学的思索は、彼らそれぞれの芸術活動と表裏一体のものとなって、その作品に圧倒的な美学的強度を与えている。
飯村隆彦は 60 年代からアヴァンギャルドのパイオニアとして知られてきたが、その真骨頂は 70 年代以降の、映像や時間経験の本質に迫るコンセプチュアルな作品群である。飯村のハードかつミステリアスな美学は、従来多くの論者を尻込みさせてきた。だが河合政之は、昨年末に出版した『リフレクション:ヴィデオ・アートの実践的美学』(水声社)の中で、その本質を初めて、鮮やかに読み解いて見せている。
飯村のヴィデオ映像作品《CAMERA, MONITOR, FRAME》(1976)は、同書の中で河合が分析の中心に据えた作品である。ナラティヴや表象の要素を極力排し、カメラ、モニター、飯村自身、そして最低限のテクストと何も映っていない画面だけで構成されるミニマルな映像。
その中で、見る/見られる視線・欲望が、内在と超越を貫いて循環する構造が、あらわにされる。ヴィデオ映像特有のフィードバック的な構造の中に観客を巻き込み、主観と客観をつなぐフレームを超えて視線と欲望が運動するメディア的な様相の会得へと、見る者を導く。
《A CHAIR》(1970)は、おそらく日本で最初のヴィデオ・テープ化された芸術作品である。フィルム映写機から発せられる光によって、椅子の背後でその影が明滅する。《A CHAIR》は、飯村自身がその日本への最初の紹介者の一人である、ジョセフ・コスースの《One and Three Chairs》(1965)を参照している。使用目的を失った椅子、写真とテクストからなる《One and Three Chairs》は、当時世界的に最先端であったコンセプチュアル・アートの代表的作品である。この作品に対する映像芸術による応答と見ることができる飯村の《A CHAIR》では、椅子本体とその影が光の中で明滅する様が淡々と映し出される。洞窟の影のように背後で明滅する椅子の影は、対象(椅子本体)のインデックスという役割を与えられながらも、リズミカルにフリッカーする時間の中で純粋な出来事としてあらわれ、物語性を許容しない。過去の記憶や無目的な椅子と切断されつつ、次第にその間隙に豊潤なる非=意味の世界が見えてくる。コスースの作品に対して、飯村の作品では椅子の影を作り出すのがフィルム(映画)の投影である。フィルムの作り出す光学的な光と影は、物理的な光の有無(ポジ/ネガ)であるが、一方ヴィデオに撮影されたそれは、光と影のどちらも同じく電子的な〈データ(河合による概念)〉の結果である。つまり、飯村の作品はメディアとしての映画とヴィデオの差異を初めて明確に意識し、顕在化させた芸術作品といえる。
今回の展覧会では、飯村が同作品をインスタレーションとして 50 年近くを経て再解釈した新作《A Chair and the Projected》(2019)も展示される。
河合政之によれば映像とは、サブジェクト(作り手・観客)がオブジェクト(もの・できごと)を伝える情報・コミュニケーションのツールなのではない。あるいは、映像自体が自立したひとつのオブジェクト(表象・テクスト)なのでものない。そこにあるのはただ、〈データ(与件)〉と河合が呼ぶ、その作用の連続だけである。〈データ〉は内在的・物理的な事象としてつかまえることはできないが、かといって超越的で不可知なものでもない。つまりそれは、論理的言説にも神学的啓示にも与さないものである。そうした〈データ〉こそがメディアの本性であり、その現代的なあらわれが映像(ヴィデオ)なのである。
ヴィデオ、つまりデータとしてのメディアの作用は、身体や欲望といった有機的な世界から、電子や機械の無機的な世界までをも貫き、無数に多様なループを描いて循環している。この循環を、河合は〈フィードバック〉という概念でとらえている。フィードバックするデータは、時間や欲望といったさまざまな不確定要素を巻き込み、内在と超越の間をときに接続し、ときに切断しながら、逸脱し続ける。そしてそうしたデータのフィードバックの「結果」が、ときに世俗的な眼には主体・客体やコミュニケーションや論理となって映り、ときに宗教的な眼には啓示となって現れるに過ぎない。要は、すべては本来、逸脱しつつ循環するデータの作用に他ならないのである。
河合の新作《Trans-flux》(2019)は、彼が続けてきた《Video Feedback》シリーズの新しい展開である。半透明のフレームの中に浮いているモニターの中で、ヴィヴィッドで抽象的なパターンが流れ続けている。その映像は、アナログな映像機器をイレギュラーに接続し、電子データを自動的に暴走させることによって作り出されている。この作品は、透明(transparent)と不透明(opaque)の間に位置する、〈半透明(translucent)〉というコンセプトを提示するものである。〈半透明(translucent)〉は、超越と内在の間を接続/切断するデータの特性を表している。循環しながら逸脱し続けるヴィデオ・フィードバックの映像は、それを意味として、あるいは啓示として受け取ろうとするような、見る者の試みをつねにすり抜けていく。そしてさらにそうした映像が、半透明なフレームによって接続/切断されることにより、二重にデータ/メディアとして、つまり偽=オブジェクト(quasi-object)として顕現するのである。河合の《Trans-flux》は〈データ〉をメディアの本質と捉えると同時に、そのデータとしてのメディアが、二項媒介的な関係性から成り立つものではなく、むしろ非=意味を生産し続ける、豊穣な「間」にこそ見出せるのではないかと我々に問いかけている。

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